文政年間より伝統の味を伝え続けて・・・

“きんつば”は江戸時代の延宝・天和の頃、京都清水坂の茶店が、焼餅の一種として焼きはじめたものだという。粳米の粉を練って展ばしたものに小豆餡を包んで、楕円形に形を調え、深鍋で焼いた。指先でまんなかに窪みをつけたのが刀の鍔に似ていたので“銀つば”と呼ばれた。「近頃京極(寺町通)の清浄華院前の店で作っているが、渡辺道和のものの方がうまい」と、京都の儒医黒川道祐が書いている。渡辺道和は烏丸通上長者町下ルにあった餅菓子屋で、渡辺道喜と並んで宗で知られていた家である。

この“銀つば”が三、四十年後に江戸へ伝わった。喜多村信節が「正徳の頃はまだなかった」と書いているから、享保に入ってからだろう。江戸では米の粉を小麦粉の変え、形も少し小さくして“金つば”と呼んだ。銀から金に出世したわけだが、これは上方は銀遣い、江戸は金遣いだったから、金の方が通りがよかったのだろうと思う。

小麦粉を練ったのを掌の上で薄く展ばし、餡を包んで鉄板の上で焼く。上品な菓子とは言えなかったが、吉原日本堤の“金つば”は、“土手の金つば”ともてはやされて、名物にさえなっていた。

「和泉庄」の“大きんつば”は、直径が六センチ厚さが二センチ余の円形で、表面の中央にちょっとした窪みがついていて、形が刀の鍔に似ている。皮はそれこそ申し訳程度の薄さで、いわば潰し餡のかたまりだ。最初、その厚みに驚いて、一つまるまるは無理かなと思ったが、食べてみるといい砂糖を使った癖のない甘さで、苦もなく平らげてしまった。小豆も精選されているし、つなぎを使っていないことが割ってみるとすぐ判る。

形が現在のような六方体になったのは文化年間くらいからで、浅草馬道の店が角形にして「見目より心」、うわべより中身といった意味の命名である。たぶんこの頃から、小麦粉を溶いた液の中へ餡のかたまりをさっと漬けて焼く、という方法を取りはじめたのだろう。

【著者紹介】
駒 敏郎(こま としお)著 「京の和菓子 旅の和菓子」より
発行所:(有)本阿弥書店

菓子のご購入

名代大きんつばをはじめ、和泉庄の菓子の数々をご購入いただけます。